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2016年12月11日日曜日

全ての悩みは、相対の中にいるから生じる

「全ての悩みは、相対の中にいるから生じる。絶対の中に入れ、そうすれば全て解決する。」その意味は、自ら内省し、向き合うべきことに向き合う過程で明らかになる。意見が合わない人に対して向き合うのではなく、進むべき方向性へ、意見が合わない人をも包んだまま、その場そのものを上げていく。その階段は、螺旋状となっており、全てを内包して擦り上がっていくものではないか。いわば地軸を動かすがごとく、意志をもって進んでいくことが大切であると感じています。

2016年11月24日木曜日

創業者と後継者の第二創業とは?

2016 宮城県中小企業家同友会 経営研究集会 第5分科会
若手経営者の挑戦ー創業者と後継者の第二創業ー
仙周工業(株)佐藤周司社長は、友達の多いガキ大将であった少年時代、解体工事業の創業者としてがむしゃらに仕事をしていた時期、経営指針実践を社員と取り組む中で自ら重機を降り、プレイングマネージャーから脱却する過程を語ります。「自分だけ良くなるわけにはいかない。社員は、仲間だ」と、もう一度会社づくりに取り組んでいること自体が「仙周工業の第二創業」であるとしながら、新しい仕事づくりとして既存事業から地域や環境という視点を加え、環境リサイクル事業へ展開していくことによって雇用を生む意味や次世代につながる産業としていく社会的責任への気づきについて静かに力強く報告されました。(株)佐元工務店佐藤真生社長は、創業62年の佐元工務店の後継者として、若林地域に根ざし築き上げてきた会社の理念・事業・社員という財産を次世代に引き継いでいく事業継承についてお話されます。伝統を守り、継続するという防波堤としての役割を果たしながらも、後継者特有の重圧や受け身の姿勢から抜け切れず葛藤する過程を率直に語り、自分として新たに生み出すものがあるのかという問いに懸命に応えようとする姿勢に御自身が持つ温かさや強い意志が感じられました。御二人の底流にある自己確立の姿勢と自分以外の方々を敬い一緒に頑張る嬉しさ・楽しさを共有したいという感覚は、創業者・後継者を問わず人間として最も大切な核として持ち続け、次世代に引き継いでいくべきものと感じました。今回は、青年部会として若手経営者同士が問題意識を共有し、経営の悩みを語り合える場を設営致しました。今回のグループ討論では、自社(自分)の核となるものは、何ですか?その核を生かすには、どうしますか?というテーマに基づき、自己確立とは何か、何をしたいのか、なぜそう思うのかを掘り下げ、自社事業を通じてどんな自己実現を図り、明日から会社で、誰とどう取り組んでいくのかを宣言し合いました。

2016年11月19日土曜日

実は、強さはいらない

実は、強さはいらないのではないか?ひとと対峙し、向き合おうとすればするほど、より努力し、より強くなろうとする。しかし、努力すればするほど、相手に対して相対的に強くなろうとしがちである。本当に必要なことは、相手に対する強さではなく、もっと、物事そのものに取り組む自分自身の絶対感ではないか?その時、決して自分が強い必要は無い。結果として、物事が改善していけば足りる。相対的な相手に対する強さでなく、物事の全体最適の中で果たすべき自分自身の絶対感をもつこと。それこそが要諦となると感じています。

2016年11月10日木曜日

志向性を持っていれば、偶然性をたぐり寄せられる

大切にしている信念は、「志向性を持っていれば、偶然性をたぐり寄せられる」です。私はこうなりたい・これを目指したいという意志を強く持つ。この意志によって、行動すれば、「場」ができる。その「場」には、多くの人びとが引き寄せられ、その人びととの関わりが偶然性を生み出す。その偶然性は、意志に基づく必然であると信じて、人々と共に新しい価値を創造します。

2016年11月5日土曜日

第二創業とは?

宮城県中小企業家同友会2016経営研究集会が来たる11月15日13時よりに仙台パレスへいあんにて開催されます。青年部会設営第5分科会のテーマは「若手経営者の挑戦=創業者と後継者の第二創業=」です。第二創業には、新しい仕事づくりと事業継承という二つの側面があります。
新しい仕事づくりは、時代の変化と多様な社会環境の中で、今ある仕事が将来無くなることを認識しているか?という問いかけに対して、経営者としていかに応えていくかということでもあります。仙周工業(株)佐藤周司社長は、現在、創業者として既存事業である解体工事業を活かしながら新事業である環境リサイクル業にも取り組まれています。仙周工業は、どんな将来を目指しているのでしょうか?経営者として、社員と共に事業に取り組む中で、どんなことを感じているのでしょうか?
事業継承は、長く事業が継続していく中で必然的に生じるものであり、団塊の世代の創業者からいかに私たちの世代が事業を引き継いでいくかという現代的課題でもあります。(株)佐元工務店佐藤真生社長は、創業62年企業の後継者として今年7月に代表取締役に就任され、事業継承に取り組まれています。佐元工務店が若林地域に根ざしてこれまで積み重ねてきたことは何だったのでしょうか?その根本をどのように次世代に引き継ぎ、会社組織として、いかに経営幹部も次の世代に継承していくのでしょうか?ぜひお越しください。

2016年10月21日金曜日

問いかけ続ける意味とは?

あるべきと思った結果に対して、事態を受け止めることや熟慮を積み重ねること、場に対する波紋を起こし続けていると、思ってもいなかった経路で結果に近づくことがある。感情の狭間、ふっと抜ける瞬間がある。その時、突破口が開かれるものだと実感している。大切なことは、その場その場の感情や、ひとつひとつのやりとりに拘泥しないこと。もっと、時間的な経過や、物事の流れから必然的に浮かび上がってくる、あるべきことに敏感であり続けたいと感じています。

2016年10月10日月曜日


平成2311月に開業し、5年となります。行政書士として日々取り組むう ちに、死と向き合う相続手続の前に、依頼者の今の人生や会社経営者の これからの経営判断そのものをともに考えていく必要性に気づかされまし た。 そこで、正面から会社経営者の経営判断や事業継承、相続を支える経営顧問業務に特化しております。経営者の経営判断の基礎づくりを支え、経営者に自信を持った経営判断をしていただくことが固有の役割です。関与先の業種・業態はそれぞれ異なりますが、業績向上に必要な経営 判断の基礎づくりには共通性があります。その共通性を地域の企業がもつ知恵として活用し、より地域繁栄につなげられるよう『共有の価値』として形にし、ともに実践していきます。
事業定義『共有の価値』実践業

平成281010日 
坪内経営法務事務所 代表 坪内 啓
 
 
 
 
 
 

2016年9月25日日曜日

十字路で出会う

十字路で出会うタイミングを信じる。進むべきことに進み、向き合うべきものと向き合い続けると、あるタイミングが自然と訪れる。力を入れなくても、なるべくしてそうなるという大きな流れのようなもの。その流れに沿って行けば出会うタイミングが来るのだと。出会い、交感し、また分かれてお互いの持ち場を果たす。そのひとつひとつの結節点の大切さを実感しています。

2016年9月21日水曜日

若手経営者の挑戦=創業者と後継者の第二創業=宮城県中小企業家同友会 第13回経営研究集会 第5分科会 (青年部会設営分科会) http://miyagi.doyu.jp/




宮城県中小企業家同友会第13回経営研究集会
第5分科会は、青年部会設営分科会です。http://miyagi.doyu.jp/
若手経営者の挑戦=創業者と後継者の第二創業=
と題しまして、新事業と事業継承という二つの側面から第二創業の取り組みについて共有します。
私坪内も、座長を務めさせていただいております。
明日から頑張る決意をする機会にできるよう青年部会一同お待ちしております。ぜひご参加ください。
平成28年11月15日(火)
仙台パレスへいあん
〒980-0014 仙台市青葉区本町1-2-2
http://www.heian-sendai.co.jp/palace/sp/access/
13:00~14:40 全体会
15:10~18:15 分科会
18:40~20:00 懇親会
http://miyagi.doyu.jp/

2016年9月14日水曜日

自己の所為の意味

自分がストレス無く、すっとできるポイントが自分のストロングポイントである。その時、自分はそんなに頑張っていないので、全くその点が肝であることに気がつきにくい。
むしろ、自分が積み重ねて、頑張り切った点を評価してもらいたいと考えてしまいがちである。しかし、物事の求められている全体最適からすれば、前者の方が意義が深い。そのことがどんな時のどんな流れで生じるのか?その機微を掴むことが要諦であると感じています。

2016年9月12日月曜日

自問自答の意義

問いかけに対して、踏みとどまることができるか?人として、後ろ暗いことをしていないか?人の信頼を裏切っていないか?話に耳を貸さず、孤高のつもりでやり過ごすことは、至極簡単である。黒い所に落ちるのは、容易い。ドス黒いコールタールのようなものが自身の身体にまとわりついていると、払拭するには、物凄く大変な積み重ねが必要である。問いかけに対する、右か左か。その正しい決断の積み重ねこそが、人間の真価であると感じています。

2016年9月9日金曜日

場に対する波紋を起こす意味

思わぬ良い結果が出ることがある。場が熟し、意識が一致していく感覚である。本来意図していた方法や段取りとは全く違っていたのだが、本当の意味で、あるべき結果に達するということ。場に対する波紋を起こし、本質的な問題提起をし続けるからこそ、思わぬ良き結果を手繰り寄せることになると改めて気付かされた。

2016年9月8日木曜日

凪に於いても、立つ構えを執る

機が揃い、いざ立つと決めた時に、立てるか?それは、凪においても、立つ構えを執り続けて来たかどうかの集積。低い姿勢で、10年間黙っていたことがあるか?底から浮上する研鑽を積んでいたかどうか。40代を越えて、これまでの20代30代までの見えない積み重ねが本当の意味で誤魔化しの効かない結果となって表れてくる。それは、個人の努力の積み重ねだけではなく、支えてくださってきた周囲の人たちに対する敬意や義侠心を保つことと感じています。

2016年9月6日火曜日

インテグリティに欠けることをしないということ

人として、最も大切なことは何かといえば、おそらくは、後ろ暗いことのないことではないか。さまざまな積み重ねの中で、決断と選択がある。その結果として、ひととしてやってはいけないことがある。ばれなければ、うまくやれれば、と切り抜けているつもりでも、最終的には、そのツケを払わらなければならないことを経験的に感じている。人からの信頼に誠実に応え、感謝を行動でお返しし、とるべき責任を執ることに真摯に向き合うことがインテグリティではないか。インテグリティに欠けることをしないということが、本当に人としての価値だと。

2016年9月5日月曜日

2016.9.5 坪内経営法務事務所10年ビジョン

1、事業者の経営判断形成の基礎づくりに貢献します。
2、事業者を支えるシンクタンクとしての信頼の基礎を固め、進むべきグランドデザインを構築します。
3、事業者と行政をつなぐ技術・経験・計画立案を蓄積することによってグランドデザインの実現可能性を高めます。


2016年9月1日木曜日

一点突破が、面になるとき

志向性を持ち、受け容れ続ける。理不尽や無理解や感情も超えて待ち続ける。ある正しさに向かって一点突破を志向していく。ある流れの、あるタイミングを共有するとき、必然的につながるものと感じます。つながる線が一定の面となり、為すべきことと向き合うことこそが同時代を生きる意味ではないでしょうか?

2016年8月31日水曜日

足元を固め、グランドデザインを示す

自己の事業を行うにあたって、寄って立つ地域に根ざし、信頼を積み重ねる。同時にすべきことは、これからのグランドデザインを発信することと感じます。選択し、集中し、枠を超えて考えを見える形にするということです。地理的な基盤確立と想念的な伝播可能性を両立する。その先には、共感と同時多発に基づく新しい普遍価値の創出があると確信します。

2016年8月4日木曜日

機を待ち、微を捉える

機とは、物事の流れの中から節目となる点である。微とは、あるべき根幹を成すもの。その機を待ち、微を捉える。これを機微という。受け流す。理不尽さをも内包する。ただし、必ず流れにも結節点が存在するので、タイミングを取りながら待っていると、結果を変えるくらい大切な本質が浮かび上がってくる。その本質を逸らさず捉えることが要諦と感じております。

2016年7月31日日曜日

事態を評価せず、ただ受け止めて大きな視座に立つ

事態を受け容れる。そして評価をしない。ただ受け止めて大きな視座に立てば、その事態そのものを巻き込むことができる。もっと大きく広い視点で、本来的な役割を果たすことが大切なのではないか?物事にはやはり正しさというものがあり、立場や主張を超えて在るべき方向性というものがある。その方向に向かって、お互いの違いを認め、融和しながら柔らかにしなやかに敢然と行動していきたい。

2016年7月22日金曜日

認めるということ

おかしさや不合理さを指摘されたとき、そのこと自体を認めるということが要諦です。受け容れず、認めず、反論を繰り返し、無視し、ひとの指摘を聴かなければ何も進歩しません。過去の事実は変えられないし、相手に求めても相手は変わらない。自分の意志決定で変えられるのは、自分へのおかしさや不合理さを指摘されたときに、そのことを受け容れることです。そうかもしれない、と思えるかどうか。その他人からの指摘を人間性についての批判と捉えては、無理解です。その指摘された事実と自分の思い込みを区別し、なぜその指摘を受けるのかをただ受け止めることができるか?それが人間の真価です。

2016年7月17日日曜日

地を所有する

地に立つ意味を考えるとき、依って立つところにある地から長く広く観ることにあると感じます。仮初めではない、地を所有する。その地から地域を観て、事を起こす。その所為こそが次の世代につながる価値を産んでいくと。

2016年7月7日木曜日

対峙ではない、関わりとは?

向き合い対峙するのではない、本当の意味での関わりとは何か?支配関係や好悪や悲憤を受け止めた上で、全体最適を企図することではないか?芯あれば、自ずとやるべきことは見えてくる。やはりおかしいことはおかしい。そのおかしさに対して、向き合うのではなく、結果として全体最適を企図すれば、感情を越えられると。

2016年7月4日月曜日

芯に対して入るということ

物事の中核を捉え、深く入っていく時、自分をモノだと思うようにしています。一個の結果を出すことを企図するなら、自分自身の存在意義に特に意味はありません。むしろ全体最適こそが肝要で、いかようにでも可変させていく。中核を捉え、集約する。巻き込んでいく芯を持つ。これが最も大切であると感じています。

2016年6月23日木曜日

それでも生きていく

人間は、どん詰まりになったときに、そのこと自体を受け容れられるかどうかが全てと感じています。困難なことやいかんともし難いことが生じたときに、受け止めず、逸らしたり、否したりすると、また同じことを繰り返します。特に大事な局面で、同じ決断を下すことが多いです。要は、それでも生きていくと決められるかどうかです。それでも生きていくと決め、それでも地べたで生きていけるかが人間の真価です。その時、その一言こそが大切であると感じています。

2016年6月18日土曜日

対岸をも引き寄せ、ことに当たる

対岸をも引き寄せ、ことに当たる。意見の違いや、価値観の違い、感情のぶつかり合い。そんな対岸を目の当たりにしたとき、突き放したくなることがあるはずです。しかし、その対岸をも引き寄せ、ことに当たるとすれば、結果は大きく変わるのではないでしょうか?強い意志と、受け止める力と、巻き込む流れと。大切なのは、目指すべき結果に対して為す、無私なる形式ではないか。

対治と同治

泣いているひとを前にして、慰めたり、助言をすることを対治といいます。あくまで向き合って、関わること。これに対して、泣いているひとの横に立ち、ともに感じともに泣くことを同治といいます。ひとを受け止めるとき、この同治の関わりを大切にしています。アドバイスしたり、言葉をかけたりすることは一見正しいように見えます。しかし、その関わりは、本当に自分事として捉えることになるのでしようか?本当に相手を受け止め、ともに感じ、ともに歩くためには、同じ側に立つことこそ要諦なのではないかと感じています。

2016年6月4日土曜日

経営理念の捉え方とは?


経営理念を再定義すれば、理念には三つの側面があると考えられます。


それが企業の存在価値 科学性、社会的責任 社会性、それを実現するための社員とともに取り組む基本姿勢 人間性です。

科学性は、何のために経営しているのか?固有の役割は何か?を深めると見えてきます。

例えば、業界における自社存在意義は?他企業にはない、自社の強みは?何をもって、自社の独自性を出すのか?

社会性は、科学性を前提として何を実現するか?です。科学性を追求すると、どんな結果がもたらされるか?

その社会に対する自社の果たす責任は何か?結果として、地域をどうして行くべきなのか?

人間性は、その科学性を前提として社会性をもたらす事業を誰と取り組むのか?です。

経営者の示す科学性と社会性に共感し、ともに歩む社員、顧客、仕入先からいかに協力を得るのか?

2016年5月23日月曜日

地理的移動とは関係ない仕事

夕方、親友とのふとした会話で、地理的移動とは関係ない仕事がしたいね、地域とか天変地異とかに左右されない長期的価値がある仕事がしたいね、と話していました。地域に特化すること自体は大切なことだけども、そこかしこで地域特化してくると思考が一辺倒になってしまうのではないか?仙台は、東日本大震災から5年が経ち、復興需要や人的移動が一段落してしまうと、熱を帯びていた空気が醒めて、何の特殊性もなくしてきたように感じる。そうだとすれば、もっと、仙台である理由や地域特化というよりも、もっと地理的移動とは関係ない普遍的な価値を生み出すことこそが必要ではないか?と。

2016年5月21日土曜日

放てば、充ちる

必ずしも正しいことが求められるのではないらしいと気づくとき、必要なことは、待つことのようです。ただ受け止め、ただ放てば、充ちる。たとえ本質からずれてしまっても、ただ放てば、充ちるときを待つことを。

2016年5月7日土曜日

自我の発現の動機について

漱石も公房も自我の発現をとことんまで突き詰めていく動機の段階では同じである。表現をする動機や内的衝動が全ての源であるとして、その動機とは一体何か?漱石は、ロンドンでひとり自我と向き合う中で、後に個人主義と呼ばれる様式を突き詰めた。その時、なぜ自我の発現の過程を見える化しようとしたのだろうか?私は青年期、揺れ動き迷う中で漱石の行人の筆致に本当に助けられた。自分だけが陥りこんでいると思っていた堂々巡りの中で、わずかに光る行灯のようでした。しかし、漱石は、後年の我々が追体験する普遍性を自覚して書いていたのか?むしろ、動機の段階では、もっと原始的な突き動かされる何かではなかったのだろうか?その突き動かされる核こそが、生きていける力となるのではないだろうか?

2016年5月4日水曜日

夏目漱石とグレングールド、安部公房について

3人ともとても鋭敏な感性を持ち、かつ自我の発現を極限まで突き詰めた。突き詰めると、様式が生まれ固定化する。その固定化に猛烈に反発する内的衝動を私小説の様式で発現し続けたのが夏目漱石である。漱石自身の発露を焼き付けた作品に読み手が触れると、苦悩の過程そのものを交感することができる。グレングールドが漱石に魅せられたのは、自我の感覚領域の完全性を求める過程で、共通する内的衝動を交感したのではないか。そのグールドが、安部公房の砂の女を百何十回も観たという。漱石も公房も自我の発現をとことんまで突き詰めていく動機の段階では同じである。異なるのは、自我の発現が貫徹され、その過程をありのまま私小説として示す漱石に対して、公房が自我の発現の過程を一切見せず、一気に他者化して交感を許さない点である。この他者化こそが公房の強さであり、グールドは憧憬を抱いたのではないだろうか。

2016年4月24日日曜日

出逢わずも、受け容れる

やりたいことと、やるべきことと、やっていることを一致させる。まず、自発能動で、自分の感覚と自発の行動を信じることから始める。すると、社会が求めているやるべきことと符合してくる。その社会的要請と文脈に照らして、自分自身の実践を一致させる。そのときの心持ちは、自重献身です。自身をそのことに奉じる気持ちで取り組むと、思わぬ周りの方々からの協力が得られたりしています。ここで、肝要であると身に沁みたことは、「出逢わずも、受け容れる」ということです。どんなに正しいと信じていても、相手には伝わらず何も生み出さない、それどころか逆に恨みをかってしまったりすることがありました。そのどうしようもない、いかんともし難いことそのものをも、そのまま受け容れることが本当に大切であると心から感じています。

2016年4月22日金曜日

球体を描くように

先輩の経営者に教えて頂いたことに、球体を描く、ということがあります。一般的に組織を考えると、トーナメント型で上から下へ系統立てます。もしくは、下からの意見を上へ上げて行くボトムアップ型。そのどちらでもなく、組織を球体を描くように捉えるというわけです。ひとりひとりが自分発信で同心円状の中心となり、輪を広げていく。その輪は、様々なカテゴリやつながりで全体として融和し、総じて球体となっているゴム毬のような組織。これこそが強い相互作用を生み出し、結果を出す要諦のようです。

2016年4月21日木曜日

節目を受け容れる

節目を受け容れ、自分の中に通す。浮上すると反作用が生じたり、想いと裏腹を招いたりすることがままあります。そのとき、そのまま受け容れることが本当に大切であると感じています。受け容れている過程のなかで、見えてくるものがあります。それは、物事の節目です。まつわる相手ではありません。事において、求められているものは何かを見極める力を身につけることを。

2016年4月3日日曜日

自分にできることを始める、その前に

自分にできることを始める、その前に。自分がやりたいことを決めることがより大事と感じています。まず、自分が起点となると決めます。次に、自分が起点となってどんな結果を実現するのかをイメージする。それから結果を実現するやり方、方法をとことん突き詰めるか!といった具合です。 大切なのは、できることから始めない。できることから始めると、できない事情が生じたときに、どんどんできなくなってしまうからです。取り組んでいくうちにやりたいこととやるべきことが一致するようになる。そうすると、一緒にやる仲間が増えてくる気がしています。

2016年3月25日金曜日

御意のままに

いかようにも、御意のままに。やるべきことを積み重ね、向き合うことを積み重ねていると、どう受け取られてしまっても大丈夫になっていくと感じています。本来の姿やあるべき方向などを見失っても、すっと浮かび上がるような具合です。自分の奥にある本性というか、芯から自然と動き出す、そんな感覚。

2016年3月18日金曜日

自在感覚と大きな流れのようなもの

個人としての自分の感覚と大きな流れのようなものが符合してくると、やりたいことと、やるべきことが一致します。そうなるなあ、当然そうだよなあといった感じです。ミクロの自在感覚とマクロの大きな流れのようなものがシンクロするという具合です。息をしっかり吐く。自在と大きな流れのようなものは同じであると感じると、自己存在の意味を息咳切って自答する必要が無くなるわけです。そうすると、内発的にやるべきことが浮き上がってきます。そこでやるだけです。決してそこには、できない理由が並ぶことはありません。

2016年3月16日水曜日

流れに添う

今思うと、そういうことだったのかと感じたりします。しかし、その真っ只中にいる時は往々にして、何故か解らないことがあります。その時自分がしたがっていたのは、大きな流れのようなものです。物事には理といいますか、大きな道理というものがあり、その方向は水の流れのように上から下に流れるその流れに添う。そうすると、ある瞬間に止まっていたことが動き始めます。

2016年3月14日月曜日

ひとを見ず、受け止める

ひとを見ず、受け止める。好悪やおかしさや悲憤やもたげるものはあります。「あなた、10年黙っていたことがあるでしょう。あなたの眼を観れば分かるわ。いろいろなものを切り捨ててきたのよね。だから、一緒に仕事をしましょう。」その言葉から、自分の人生は反転しました。その沈黙の積み重ねと義憤の鬱積と絶え間ない決断と。起きていることに、これから起こすことに意味があるのだから。

2016年3月5日土曜日

場のつくるもの

自分はものだ、と思うようにしています。大切なことは、場のつくるもの。そこに、自分の意味とか自己主張とか、本当に不要であると。場の一部である自分と感じる。現今目前の場が、次をつくっていく。自分がどうあるかとか、どんな存在かであるかなどの意味付けをしない。実現する結果こそが本当に大切なものであるから。

2016年2月27日土曜日

向き合うべき時に向き合うべきことに向き合う

大きな流れの中で、節目に合います。その時が向き合うべき時です。向き合うべき時に向き合うべきことに向き合う。己を空しくして在る自分を示す。ここで大切なことは、向き合うべきことに向き合うこと。すなわち、向き合うべき相手ではありません。ひと対ひとになると、感情や状況に左右され本質から外れて行くからです。問題は、解決しない。問題は、問題としてそのままにしておく。むしろ、問題を問題としてそのまま受け容れた上で、これからどうするかという「こと」を決める。そこに向き合うと、相対的に問題は問題では無くなっていくわけです。

2016年2月17日水曜日

受け容れる

どんなにしても、どうしようもないことが起きます。自分も20代30代にかけてどうしようもないことがたくさん起こりました。もがいたり抵抗したり反発したり。だが、しかし、どうしようもないことが起きます。その底に居たとき、ものを考えることもできなかった。ただ、在ることだけを感じていました。ここに、自分は在るなあ、と。底って在るんです。手も足も出ないけれど、底。底では、眼だけになる。眼で、在ることを感じていました。それだけは確実でした。なるほどそうだな。そうしていると、右か左かを決める選択肢が与えられます。自分は、その選択の時間を試しの時間と呼んでいました。いろいろな状況の中で、右か左かを決める選択をします。選択が正しければ、階段を一段上がります。その選択を何回も何回も繰り返して、最後の一段を上がったとき扉が開きました。扉が開いた時の自分の感覚は、全く嬉しくはなかったです。これからの毎日が大変であることを予期していたからです。それでも毎日は続きます。その毎日が今につながっているわけです。

2016年2月14日日曜日

木を決める

動かない木を決める。30歳の頃、日曜日の夕方は走るようにしていました。現状に行き詰まり、如何ともしがたい毎日の中で、武蔵境から小平まで走っていました。考えない訓練というか、鼓動の中に入るというか。走り、歩き、整え、カレーを作り、寝る。結局現状は打開できず、むしろ悪化し何も残らなかったけれど、40歳の今、その時の感覚が自分を決めてくれていると感じます。小平駅の近くに林があって、古木があったんです。木は、動かない。動かない木を自分で感じると、また、自分に戻ることができた。絶対の自分の確立。

2016年2月7日日曜日

現今目前、聴法、無衣の道人、歴歴地に分明なり、いまだ曾て欠少せず

現今目前、聴法、無衣の道人、歴歴地に分明なり、いまだ曾て欠少せず(鈴木大拙著東洋的な見方p17)。全ての悩みは相対の中にいるから生じるんだよ。絶対の中に入れ、そうすれば全て解決する。ハタチのときから師事していた鈴木仁一先生は直接鈴木大拙氏より薫陶を受けておられた方で、16年間折に触れ指導していただきました。そこはかとなく私なりに理解したのは、自在の感覚です。今、ここに、いる自分の存在は、実在で絶対である。自由や自信というのは、とみに他律的で、他人の評価や言動に左右されがちであるが、自在は、つねに絶対である。絶対感を認め、自在を受け容れると、自然と自由が生じ、結果としての自信が身につくという具合です。冒頭句の意味は、いま、ここで、いるこの場で、ありありと全き自分なのです。いまだかつて欠けたことなんてないのです。さあ、ここから始めようという意味あいです。この感覚は、時の経過も、東洋西洋も超えて一定であると感じています。

2016年2月6日土曜日

大きな流れのようなもの

納得ができなくて、どんなに努力したつもりが空回りしていました。砂を噛むような毎日の中で自分がしていたことは、小さな目標達成を記録することでした。手帳に、行動事実と数字だけを記録し、状況と感情を一切書かないこと。そして、積み重ねること。次に、その行動事実と数字がなぜ、その行動事実と数字になっているかの理由を書く。その繰り返しです。効果は、ふわふわとした漠然とした不安解消から確実な原因の明確化につながることです。その積み重ねこそが、自分自身の絶対感となっていく感じです。ふと見渡すと、自分自身の絶対感だけに注力していたはずなのに、実はその絶対感は、大きな流れのようなものの中にいることと同一であることに気がつきます。

2016年2月4日木曜日

今日の試み

北の大地に居る友へ送ります。
今、ここで、ここから始める。その薄紙を重ねるかのような積み重ねをし続ける。友を想い、友が何を目指し、葛藤し、動いたのかに想いを馳せる。そして、己を振り帰り、いかに生きていくかの覚悟を決め続けること。我々は、螺旋の輪のように重なる祖先からの系譜のつづら折りの一部をなし、その持ち場を紡ぐために生きている感覚を持つ。生きて帰ってくると信じています。

2016年2月3日水曜日

融解する

決めると、進む。進むと波紋が広がる。波紋には、無論プラスもマイナスも生じる。そのとき、戻ってきた波紋をただ受け取ることが本当に大切であると感じています。ここに、融解が生じる仕事をする。イメージを色で表現するなら、黒と緑が融解し、蒼く染まっていき、真赤に昇華するがごとくです。自分が、自分として自在することを起点とした融解をすることの大切さです。

2016年1月31日日曜日

諦めるということ

諦めるというのは、諦めることなんてできやしないということ、を諦めること(哲学者池田晶子)。心の奥から湧き上がってくる渇望というものは、抑えることなんてできない。しかし、現実には、もうどうしようもないということはままある。その時、いかに前に進むか。私は、全面撤退し、一番確実な一点だけに注力しました。一点突破。諦めてなんていないが、今までのやり方・方法は捨て、別の座標軸を持つ。この座標軸だと決める、それだけです。

2016年1月30日土曜日

共通性と独自性

地元仙台に戻って、まずはじめにしたことは、いろいろな業種の先輩方の体験談をとにかく聴くことでした。と言いますのは、創業、後継問わず、うまくいくためには必ずやっていることがあると思ったからです。初めの半年で、30人の先輩方に、仕事を始めてからやってきたことをお伺いし、手帳にメモを取ります。そうしていくと、共通して必ず実践されていることがあると気付きました。その項目を、ひとつひとつ丁寧に実行していきました。その共通する基礎の上に、自分なりの自社に合わせた特長を積み重ねることで、現在の自分の形を確立していきます。このことは、すべての業種、立場の方に共通していると感じております。

2016年1月29日金曜日

何のために

ドン底の35の頃、どんな状況でも前を向いて歩いていけると感じていました。人間は、何度でもやり直すことができると。ただひたすら、反復を繰り返し、深く息を吸って、自分以外の誰かのために生き直すことを考えていました。36の時、東京で13年間最後の司法試験の準備をしていた自分は、2011年3月11日13時36分に仙台駅に新幹線で一時帰郷しました。その一時間後の14時46分、東日本大震災。5月10回目の司法試験をもって断念。震災ボランティアに参加し、陸前高田の泥かきでどんどん綺麗になっていく道路、側溝をみて自分のことだけを考えこだわってきた13年間よりも、この数日の方がよほど意味があると思え、、、地元仙台に戻る決意を固めました。

不合理ゆえに吾信ず

ちょうど30の頃、なかなか思うにまかせない現実に絶望してばかりの毎日。
その時、自分が、そのまま自分として生きていこうと決意した言葉です。
不合理ゆえに吾れ信ず
現実はいろんなことが起こるし、努力とか意志とか関係ないところで決まることがままある、でも、だからこそ無条件で信ずることが必要なのではないか。踏み出す一歩の、その前の気持ちです。

裸足でアザミを踏みつける

40になります私ですが、20代30代と自分が定まらない不安と葛藤を繰り返してそれでも、裸足でアザミを踏みつける毎日を過ごして参りました。ふと、22の時の文章を読み返したら、プラスの自分もマイナスの自分もすべて肯定している自分を見つけました。それは、新鮮な驚きです。あのときは、自分の思索の枠の中だったけれど、実体験を重ねた今は、別の感じ方をしています。
 「では、混迷の我々にとって、我々を位置付けてくれる裏打ちとなるもの、そして、その背景にある思想は何なのでしょうか?それは、歴史=時間軸なのではないでしょうか。連綿と受け継がれてきた世代の積み重ね、こうなるべくして、次々と生みつがれてきた先祖たち。そういった者たちと我々は、分断しては捉えられない。決して、平面思考では位置付けが明らかになれない我々も、時間軸を与えれば、自ずと静かに場所が決まるのです。これを、俺たちは、忘れているのではないか?1998.2」

2016年1月28日木曜日

自分の頭で考え自分の責任を果たす

考え方を学ぶことは大切です。しかし、その上で自分の頭で考えることが最も大切です。与えられたプログラムではない、自分の頭で考え自分の責任を果たす。自分の分際を見極め全体の最適化をする。現場の情報を整理し、その場で自分たちで考え、最善の決断を積み重ねることが事業を伸ばす肝だと感じています。

2016年1月27日水曜日

背中に積み重なっているもの

右か左か
決断をする背中に積み重なるものがあります。
もしくは、もともと積み重なっているものの上に、決断がある。
思念の背後には、これまでの人生で経験してきたことや迷い、邪心、過ちの諸々が黒い影として折り重なる。腹決めする確たる存在こそが、絶対となる。
ここに、自在となるわけです。

2016年1月26日火曜日

試しの時間

人生のどん底の中にいた自分は、ここが本当に底であると感じていました。
黒いコールタールにまみれたごとくの重い空間。
しかし、その時自分が与えられていたのは、右か左かを決断することでした。
私は、その時間を「試しの時間」と呼びます。要は、決めるのです。右か左かを。
正しい選択であると、階段を一段上がります。そうでないと、また黒いコールタールへ。
受け止め、そして決断する。その連続。ひとつひとつの決断の積み重ねこそが、階段の先の扉を開けることになります。決める、右か左かを。

2016年1月25日月曜日

自在について

自在とは、自ずからここに在る、と書きます。自分が、いまここに存在することは絶対といえます。これに対して、通常は自分には自信が無いと感じがちです。なぜなら、自信とは、自分を信じると書くけれども他人の評価を伴う相対的な概念であるからです。だからこそ、自在と、ただ感じる。その絶対的な感覚で、思索し、決断する。このことをただ反復し、私はドン底の状態から這い上がってきました。


2016年1月24日日曜日

木こりと木の精

ハタチのとき師事していた鈴木先生にこんなお話をされました。
木の周りに木を守っている木の精がいます。
それに対して、木こりは、木を切って、材木にしようとしております。
木こりがどんなに頑張って木を切ろうとしても、木の周りをぐるぐる周る木の精のせいで
全く木を切れません。なぜなら、木の精は、木こりの動きに合わせて縦横無尽に対応できるからです。そのうち、木こりは疲れて諦め、帰ってしまいました。
すると、木の精は、木の周りをぐるぐる周って頭をぶつけて死んでしまったというのです。
鈴木先生は、その木の精が、まさに今のお前さんだよ、とおっしゃいました。
そして、すべての悩みは相対の中にいるから生じるのだ。
絶対の中に入れ。
そうすれば、全ての悩みは解決する、と。

その場で考え、その場で構築する意味

大切にしていることは、その場で考え、その場で構築することです。事前準備をしたうえで、一旦横に置いておく。知識と思い込みを捨て、そのまま受け取りその場で、そもそもの趣旨をたどります。そして、何に取り組むことが最も効果的かをその場で構築することが、新しい価値を生むために最も大切なことと感じています。http://sendai-seinenkouken.com

2016年1月23日土曜日

インテグリテイということ

インテグリテイということ
人間が持つ最も大切な資質は、インテグリテイと言われています。
直訳すれば、真摯さ、です。
物事に対して、人に対して本質に迫り、かつ、誠実に向き合い、寄り添い、執り得る責任をとることでしょうか?
一点のくぐもりのない湖水に照らして、眼を見開き得る精神性、真摯さ。
そういうインテグリテイを大切に、仕事をしていきたいです。