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2016年5月7日土曜日

自我の発現の動機について

漱石も公房も自我の発現をとことんまで突き詰めていく動機の段階では同じである。表現をする動機や内的衝動が全ての源であるとして、その動機とは一体何か?漱石は、ロンドンでひとり自我と向き合う中で、後に個人主義と呼ばれる様式を突き詰めた。その時、なぜ自我の発現の過程を見える化しようとしたのだろうか?私は青年期、揺れ動き迷う中で漱石の行人の筆致に本当に助けられた。自分だけが陥りこんでいると思っていた堂々巡りの中で、わずかに光る行灯のようでした。しかし、漱石は、後年の我々が追体験する普遍性を自覚して書いていたのか?むしろ、動機の段階では、もっと原始的な突き動かされる何かではなかったのだろうか?その突き動かされる核こそが、生きていける力となるのではないだろうか?

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