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2016年5月23日月曜日

地理的移動とは関係ない仕事

夕方、親友とのふとした会話で、地理的移動とは関係ない仕事がしたいね、地域とか天変地異とかに左右されない長期的価値がある仕事がしたいね、と話していました。地域に特化すること自体は大切なことだけども、そこかしこで地域特化してくると思考が一辺倒になってしまうのではないか?仙台は、東日本大震災から5年が経ち、復興需要や人的移動が一段落してしまうと、熱を帯びていた空気が醒めて、何の特殊性もなくしてきたように感じる。そうだとすれば、もっと、仙台である理由や地域特化というよりも、もっと地理的移動とは関係ない普遍的な価値を生み出すことこそが必要ではないか?と。

2016年5月21日土曜日

放てば、充ちる

必ずしも正しいことが求められるのではないらしいと気づくとき、必要なことは、待つことのようです。ただ受け止め、ただ放てば、充ちる。たとえ本質からずれてしまっても、ただ放てば、充ちるときを待つことを。

2016年5月7日土曜日

自我の発現の動機について

漱石も公房も自我の発現をとことんまで突き詰めていく動機の段階では同じである。表現をする動機や内的衝動が全ての源であるとして、その動機とは一体何か?漱石は、ロンドンでひとり自我と向き合う中で、後に個人主義と呼ばれる様式を突き詰めた。その時、なぜ自我の発現の過程を見える化しようとしたのだろうか?私は青年期、揺れ動き迷う中で漱石の行人の筆致に本当に助けられた。自分だけが陥りこんでいると思っていた堂々巡りの中で、わずかに光る行灯のようでした。しかし、漱石は、後年の我々が追体験する普遍性を自覚して書いていたのか?むしろ、動機の段階では、もっと原始的な突き動かされる何かではなかったのだろうか?その突き動かされる核こそが、生きていける力となるのではないだろうか?

2016年5月4日水曜日

夏目漱石とグレングールド、安部公房について

3人ともとても鋭敏な感性を持ち、かつ自我の発現を極限まで突き詰めた。突き詰めると、様式が生まれ固定化する。その固定化に猛烈に反発する内的衝動を私小説の様式で発現し続けたのが夏目漱石である。漱石自身の発露を焼き付けた作品に読み手が触れると、苦悩の過程そのものを交感することができる。グレングールドが漱石に魅せられたのは、自我の感覚領域の完全性を求める過程で、共通する内的衝動を交感したのではないか。そのグールドが、安部公房の砂の女を百何十回も観たという。漱石も公房も自我の発現をとことんまで突き詰めていく動機の段階では同じである。異なるのは、自我の発現が貫徹され、その過程をありのまま私小説として示す漱石に対して、公房が自我の発現の過程を一切見せず、一気に他者化して交感を許さない点である。この他者化こそが公房の強さであり、グールドは憧憬を抱いたのではないだろうか。