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2016年5月21日土曜日

放てば、充ちる

必ずしも正しいことが求められるのではないらしいと気づくとき、必要なことは、待つことのようです。ただ受け止め、ただ放てば、充ちる。たとえ本質からずれてしまっても、ただ放てば、充ちるときを待つことを。

2016年5月7日土曜日

自我の発現の動機について

漱石も公房も自我の発現をとことんまで突き詰めていく動機の段階では同じである。表現をする動機や内的衝動が全ての源であるとして、その動機とは一体何か?漱石は、ロンドンでひとり自我と向き合う中で、後に個人主義と呼ばれる様式を突き詰めた。その時、なぜ自我の発現の過程を見える化しようとしたのだろうか?私は青年期、揺れ動き迷う中で漱石の行人の筆致に本当に助けられた。自分だけが陥りこんでいると思っていた堂々巡りの中で、わずかに光る行灯のようでした。しかし、漱石は、後年の我々が追体験する普遍性を自覚して書いていたのか?むしろ、動機の段階では、もっと原始的な突き動かされる何かではなかったのだろうか?その突き動かされる核こそが、生きていける力となるのではないだろうか?

2016年5月4日水曜日

夏目漱石とグレングールド、安部公房について

3人ともとても鋭敏な感性を持ち、かつ自我の発現を極限まで突き詰めた。突き詰めると、様式が生まれ固定化する。その固定化に猛烈に反発する内的衝動を私小説の様式で発現し続けたのが夏目漱石である。漱石自身の発露を焼き付けた作品に読み手が触れると、苦悩の過程そのものを交感することができる。グレングールドが漱石に魅せられたのは、自我の感覚領域の完全性を求める過程で、共通する内的衝動を交感したのではないか。そのグールドが、安部公房の砂の女を百何十回も観たという。漱石も公房も自我の発現をとことんまで突き詰めていく動機の段階では同じである。異なるのは、自我の発現が貫徹され、その過程をありのまま私小説として示す漱石に対して、公房が自我の発現の過程を一切見せず、一気に他者化して交感を許さない点である。この他者化こそが公房の強さであり、グールドは憧憬を抱いたのではないだろうか。

2016年4月24日日曜日

出逢わずも、受け容れる

やりたいことと、やるべきことと、やっていることを一致させる。まず、自発能動で、自分の感覚と自発の行動を信じることから始める。すると、社会が求めているやるべきことと符合してくる。その社会的要請と文脈に照らして、自分自身の実践を一致させる。そのときの心持ちは、自重献身です。自身をそのことに奉じる気持ちで取り組むと、思わぬ周りの方々からの協力が得られたりしています。ここで、肝要であると身に沁みたことは、「出逢わずも、受け容れる」ということです。どんなに正しいと信じていても、相手には伝わらず何も生み出さない、それどころか逆に恨みをかってしまったりすることがありました。そのどうしようもない、いかんともし難いことそのものをも、そのまま受け容れることが本当に大切であると心から感じています。

2016年4月22日金曜日

球体を描くように

先輩の経営者に教えて頂いたことに、球体を描く、ということがあります。一般的に組織を考えると、トーナメント型で上から下へ系統立てます。もしくは、下からの意見を上へ上げて行くボトムアップ型。そのどちらでもなく、組織を球体を描くように捉えるというわけです。ひとりひとりが自分発信で同心円状の中心となり、輪を広げていく。その輪は、様々なカテゴリやつながりで全体として融和し、総じて球体となっているゴム毬のような組織。これこそが強い相互作用を生み出し、結果を出す要諦のようです。

2016年4月21日木曜日

節目を受け容れる

節目を受け容れ、自分の中に通す。浮上すると反作用が生じたり、想いと裏腹を招いたりすることがままあります。そのとき、そのまま受け容れることが本当に大切であると感じています。受け容れている過程のなかで、見えてくるものがあります。それは、物事の節目です。まつわる相手ではありません。事において、求められているものは何かを見極める力を身につけることを。

2016年4月3日日曜日

自分にできることを始める、その前に

自分にできることを始める、その前に。自分がやりたいことを決めることがより大事と感じています。まず、自分が起点となると決めます。次に、自分が起点となってどんな結果を実現するのかをイメージする。それから結果を実現するやり方、方法をとことん突き詰めるか!といった具合です。 大切なのは、できることから始めない。できることから始めると、できない事情が生じたときに、どんどんできなくなってしまうからです。取り組んでいくうちにやりたいこととやるべきことが一致するようになる。そうすると、一緒にやる仲間が増えてくる気がしています。